終章[終章]他人は昇が頭を強く打ったせいで人が変わったように思うかも知れない。 しかし、今の昇は他人の目などどうでもよかった。 一所懸命祈ってくれた直美の両親と自分の母親、そして直美と子供達、人生を支えてくれた友人、 生きとし生けるもの全てに感謝の意を表し大切にしなければと思った。 正月前のあわただしい頃を迎えた昇は掃除を手伝っていた。 昇は直美に「シーちゃんのお父さんの手紙は親の時代の歴史だった」と言った。 直美はけげんな顔で「レキシ。ふーん」と答えただけだった。 昇は「直美、次の祇園祭には二人で行こうか」と投げかけてみた。 直美は「嬉しい」と言って後から抱きついた。 春が過ぎ、夏が来て宵宮の日、夕方から二人は出かけた。 電車の中で昇は「直美、俺は確かに去年、行ったぞ」と言ってみた。 直美は「そのようね。 話を聞いていて私、そう思ったわ。 茂子さんが迎えに来ていたのね。 去年は茂子さんと行ったのね」としんみりした口調で答えた。 昇はやはり竹田で乗り換えた。 去年と同じように四条通りへ出た。 去年同様、もの凄い人で賑わっている。 昇は「迷子になるよ」と言って直美の手を取った。 直美も茂子のように強く握り返してきた。 違うのは直美はワンピースを着ている事である。 昇は月鉾を見つけた。 傍まで行くとそびえている。 とてつもなく大きなものだ。 「新町通り」という表示も見つけた。 そのまま北へ突き抜けると三条通りへ出るはずだ。 鉾や町屋を見ながら歩いた。 直美が突然「お父さん、そんなに急いでどこか行きたい所でもあるの」と聞いた。 知らないうちに足早になっていた。 「ああ、あるんだ」と答えて昇は本当にあのお香屋さんはあるだろうか、と思った。 三条通りの人込みを歩いているとかすかにお香の香りがしてきた。 思わず「あった」とつぶやいた。 直美が少し変な顔をした。 看板を見ると「石黒香舗」としてある。 木の看板である。 あの時と同じ看板だ。 昇は直美を外で待たせて中へ入った。 昇は眼鏡をかけた店員を探したがその人は見当たらない。 同じような年恰好の女がいたので尋ねてみた。 「去年、眼鏡のかけた方がおられたのですが、今日はおられますか」と尋ねてみた。 「あの方はお辞めになりました」と女は言った。 「何かあの方にご用でしょうか」と言うので「去年の祇園さんの夜、ここで私の連れが鼻血を出してお世話になったのですが」と 言うと傍にいた若い娘が「鼻血を出した方でなくつわりで気分の悪くなった方がおられましたけど」と答えた。 昇は「いいえ、確かに奥のカマチの所で休ませて頂いて」と言うと「確かに一時間ほど休んで行かれましたが、お連れの旦那様も 若い方でした」と言った。 「お世話して差し上げたのは私でお家へ帰られてから丁寧なお礼状をいただいたので覚えております」と答えた。 昇はこんなにはっきり覚えているのに店員は知らないと言う。 「何時頃の事ですか」と聞かれて「9時半くらいから小一時間の間でした」と言うと若い店員は「私の記憶に間違いはありません。 その時は若いご夫婦でした。祇園さんに来られて気分の悪くなる方はたまにおられますが、去年はお一人だけでした」と言った。 昇は「いや、失礼しました。店を間違えたかも知れない」と言い、外に待たせてある直美を呼び入れた。 そして去年茂子が買った「にほひ袋」をひとつ買ってやり、直美の胸元へ入れてやった。 直美は驚いて「まだ事故の後遺症は治ってないの」と言った。 昇は「アホか」と言ってこぶしを直美の額に軽く当てた。 直美は嬉しそうな顔で「にほひ袋」をひとつ自分でも買った。 いろんな細工物を手にとって見てたんすに入れるからと言って和紙に包まれた香の小袋の詰め合わせも買った。 店を出てから昇にさっきの「にほひ袋」を渡して「ねえ、お父さん、これと綿菓子を持って茂子さんのお墓へお参りして上げましょう。 21世紀を待たずに逝った茂子さんにお礼が言いたいの。 昇さんを置いて行って下さってありがとう、って」と言った。 昇は「そうだね。 きっとシーちゃん、喜ぶだろう」と答えた。 直美は「綿菓子は猿沢池の盆踊りの時に買って次の日にお参りしましょう」と言った。 昇も「ああ、それがいいね」と答えて「俺も変わったな」とつぶやいた。 直美は「世の中も変わるのだから人も変わって当然よ。 人が変わらなきゃ世の中だって変わらないわ」と言い、クスリと笑った。 その夜、二人は思う存分見て回った。 昇が「今夜はどこかに泊まって明日の曳き回しも見てから帰ろうか」と言うと直美は「曳き回しは特別席で見たいから、 又来年のお楽しみ。チケットを買っておかなきゃいけないの。この暑さの中で人込みに混じって背伸びして見るのは嫌」と言った。 昇は「それじゃ、そうしよう」と答えると「茂子さんもその方が喜ぶと思うわ。あなたが代わりに思う存分祇園祭を見て 上げればいいわ。私はいつ迄もついて来るから」とほほえんで言った。 昇はこの一年の間の不思議な出来事を自然に受け入れようと思った。 こんな事もあるもんだ。 世の中の全てが科学で証明できる事ばかりではない。 人間の頭では考えられない事が一杯あるもんだ。 人間が地球上に現れて何万年、いや何億年たつか知らないが科学が急速に発達したのはその内の何百年でしかない。 いや、百数十年でしかない。 まだまだ不思議な事ばかりでもおかしくはない。 それを無理矢理に証明しようという方が土台無理な事なのかも知れない。 何もかも杓子定規に計るよりも、そんな事もあるさと考え、人のつながりを広げていく事の方が社会の為になるのではないかと考えた。 毎日の淡々とした生活の中でほのぼのとしたものを育てる事が本当の社会変革につながるのかも知れないと考えた。 黙って直美の手を取って歩いた。 「ねえ、あなた、怒ったの」と直美が心配そうな声で言った。 昇は「いや、怒ってなんかいないさ」と笑顔を直美の方に向けた。 「怒ってなんかいないけど、不思議な事が一杯あるんだね。 この世には。 楽しい事だ」 祇園囃子がふたりを包み込んでいた。 (完) |